2014年09月17日

『パールへの道』2:これ、いらない?

予告では「表は経済、裏は美術」なんて堅苦しいタイトルをつけてしまいましたが、ちょっと疲れていたのかも知れませんね。
そんな大それた話ではなく、内容は新聞の折り込みチラシについてです。
「な〜んだ、それ」と思われたでしょうか?
でも、そのこと、かなり深いところでぼくの原体験になっているのです。もっと言えば、カードゲームとの驚くような類似が、折り込みチラシにはありました。

時代はやっぱり1970年代初頭。新聞の折り込みチラシは、非常に簡素なものでした。上質紙に1色ないし2色の片面印刷。特に、スーパーのチラシがそうでした。
で、お金のないわが家では、チラシの裏面はけっこう大切にされていたわけです。タダで手に入る白い紙でしたからね。

キャンバス、と言ってよければ、正にそれがぼくにとってのキャンバスでした。
「これ、いらない?」と、よく母に聞いていたのを今でもハッキリ覚えています。そしてそこに、仮面ライダーやウルトラマンをせっせと描いていました。


一旦、世の中にとって有益な表面が使われたあと、裏面に自由な空間が広がっている。それがチラシの裏に絵を描くことの大きな意味だったように思います。
実はぼく、あまり「サブカルチャー」という言葉が好きではありません。何故なら、メインに対してのサブは、あくまで同じ地平に立っているからです。つまり、カウンターカルチャーではない。
メインカルチャーが有益ならば、無益なカルチャーはバックにある気がするのです。

それは、王様と道化の関係に似ています。
王様は表の世界を支配し、そのすみずみにまで秩序をいきとどかせます。が、権力は必ず一定の価値観でかたよるため、あらためて全体のバランスを取らなければなりません。その時活躍するのが道化です。
家臣は王様の価値観にしたがわなければならいため、全体のバランスを取ることはできません。むしろ、ドンドン価値観をかたよらせてしまいます。サブカルチャーって、やっぱりメインカルチャー側にいるわけです。

ただ一人、道化だけが王様に反抗し、世界全体をつりあわせます。王様にさからい、からかうことで世界全体をしょって立つ。王様が表の中心なのに対して、道化はその真裏にいるわけです。道化、カッコイイではありませんか。
表に対する裏って、つまりはそういうことなのです。


さて、裏面がいかに気楽でノビノビとしたものであったかは、画用紙と対比するとさらによくわかります。
両面が白い画用紙に何かを描く時、ぼくはずいぶん緊張したものです。世界に対して、新しい何かをつけ加える怖さがそこにはありました。ノートでも、表面に書く時の方が緊張感が高いですよね? それに対して、裏面にはある種のなごやかさがあります。

実は、「新」という漢字の意味はけっこう深淵です。
「辛」は先のとがった道具で、これを投げて切り出す木を選びました。「斧」でその木を倒して、新しい木を手に入れたわけです。で、何を作ったかというと、位牌。死んだ人の名前を書きしるしておく木の板ですね。一番「見」る位牌は父母のものなので、そこから「親」という字も生まれました。

つまり、新しいというと何だかめでたい感じがするのですが、世界に新しいものをつけ加えるのって、死んだものを増やすことなんですね。敢えて言えば、殺すこと。なるほど、緊張するわけです。
「王の血染めのマントは三代で白くなる」という言葉があります。初代の王様というのは猛々しく、そのマントは血塗られています。その激しさが薄まるには三代かかるという意味です。

もちろん、そんなこんなはずっと後になって知りました。知識としてですね。
オンタイムで感じていたのは、「裏の方が気楽だなぁ」って印象くらい。それとて言葉になっていたわけではありません。習字の一筆めだったり、お絵描きの色塗りだったり、両面が白い紙への最初のアプローチは何だかチクチクして、居心地が悪かった。その裏返しとして感じていたわけです。


最後に、チラシとカードゲームの類似について触れておきましょう。
それは、片方の面が全部同じで、片方の面が異なるということです。
呼び方は表と裏で逆になりますが、チラシの印刷面(表)とカードの裏面は同じ絵柄で、公に開かれています。みんなが同じものを見るわけです。それに対して、チラシの白紙面(裏)とカードの表面は、個人に向けて閉じています。

だからカードゲームが好き! ってのは言い過ぎですが、表と裏がそれぞれに役割を持っている状態が、ぼくには安心できるみたいです。
どちらか一面だけが突出すると、落ち着かないんですね。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
こんなに長い文章を書くつもりではなかったのですが、書いているうちに止まらなくなってしまいました。聞かれたことに答えるのって、何だか楽しいものですね。
さて、次回は「見ればかけるよ」です。


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posted by Kazuki at 11:49| 『パールへの道』

『パールへの道』3:見ればかけるよ

引き続き、貧乏なお話です。
いや、当時は自分の家がそんなに貧しいとは思っていなかったのですが、振り返ってみてあらためて気づかされました。確かに、おこづかいは少なかったし、絵をかくのはチラシの裏だったし、着ている服は母親が縫ったものだったし…。

そんな感じだったので、雑誌なども毎月買ってはもらえませんでした。『楽しい幼稚園』とか『小学○年生』などですね。あっ、学研の『科学』だけは毎月取ってくれていました。教育熱心な家庭だったのかな? というか、子供的には付録にひかれていたはずです。

ともかく、身のまわりにある情報が圧倒的に少なかったわけですね。今のようにネットもなければ、ビデオもない。そして、テレビ番組はオンタイムでただ1回見られるだけでした。
一般家庭にビデオが普及するのは1980年代に入ってからなので、1970年代はテレビが純粋にテレビとして機能した最後の時代だったと言えます。

やや話がそれますが、ぼくは20世紀でもっとも文化的インパクトの大きかった発明はビデオだと思っています。それまでは動画を普通の人が扱える機会はなく、時間は常に目の前を流れていくものでした。その時間を手に取れるパッケージにしたのですから、これは凄い。聴覚的にはレコードやカセットがすでにありましたが、視覚的な時間の物質化はより強烈だったと思うのです。


さて、録画もできないし、資料も少ない。そんな中で自分の好きなキャラクターを描けるようになるには、番組を見ながら「覚える」しかありませんでした。動いているものを見て、細部まで覚える。
その原動力は所有欲だったはずですし、そう言ってよければヒーローたちへの「愛」だったと思います。

一旦構造を覚えれば、何も見ないでヒーローがかけるようになります。しかも、自分の好きなポーズで。時間や場所にもしばられません。学校の授業中でも、ノートのはしっこに自分の好きなキャラクターを呼び出せました。ちょっと黒魔術のようじゃないですか。
逆に、資料を見ながら描くのはいささか卑怯なこととされていました。「そりゃぁ、見ながらだったら誰でもかけるよ」と。そっちが王道なのにね。いずれにせよ、その皮肉は割と普通に言われていたので、うちだけでなく、世の中全体がおおむね貧しかったのだと思います。


その倒錯した価値観は、実は日本文化の伝統全体にも通じています。
中国文化の荘厳さに対し、長い間日本はへりくだった態度を取ってきました。建造物しかり、文字文化しかり。
特に建造物は奇麗に作るところまでは真似できましたが、後が続きません。平等院の鳳凰堂なども、もとはベカベカのド派手な建造物でした。が、徐々に色あせていく…。そして、それを修復するところまでは資金がないわけです。結果として朽ちるに任せるしかなく、そこから「それでもいいんだ」「いや、それがいいんだ」という価値観が生まれていきました。侘び寂びですね。

伊集院光さんが、プロ野球観戦に関して同じようなことを言っていて、ひざを打った覚えがあります。
お金持ちの子供はジャイアンツの試合を内野席で見られるけれど、自分はお金がないので同じ後楽園でもファイターズの試合を外野席で見るしかなかった。メジャーな選手を間近に見られる高揚感などなく、酔っぱらいにからかわれながら見るのが生のプロ野球観戦だった、と。そこから野球の「通」になっていくわけです。
「見ればかけるよ」にも、それに似たものがありました。要するに、負けているものが「それでもいいんだ」「いや、それがいいんだ」と思い返す文化ですね。それ、道化にも通じます。


やや話がそれますが、美大時代、英語の時間に落書き合戦をしたことがありました。最初にぼくがマジンガーZを写実的に描き、その絵をまわしたのがきっかけです。われもわれもとみんなが自分の好きなヒーローをかき出しました。いや、みんなうまかった。そりゃ、美大に通るくらいですから(笑) 何より、誰もが複数のテレビヒーローを描けることに驚いたものでした。ぼくらの世代は特に強くテレビの影響を受けたのかも知れません。

ちなみに、「キャラクター」の語源は「刻みつける」ことです。神様が性格を刻みつけたのが人間のキャラクター。人間が板などに刻みつけた文字もキャラクターと呼びます。
つまり、各自の胸にそれぞれのキャラクターが大切に刻みつけられていたわけですね。


記録と記憶は似ているようですが、逆のベクトルを持っています。
記録は身体の外に何らかのしるしをつけて残しておくもの。一方、記憶は身体の中に情報をしみこませる営みです。なので、覚えて描くというのは、ヒーローとの一体感にもつながります。やっぱり覚えることの原動力って「愛」だと思うのです。

伝説の言語学者・井筒俊彦さんにこんな逸話があります。
イスラム圏から日本に来た大学教授が一冊も本を持っていないことを不思議に思い、どうしてなのか問いただしました。すると、「本に頼らなければならないのはそれを覚えていないからだ。自分は大事な文章は全てそらんじている」と。これには舌を巻いたそうです。

イスラムの教授に比べるべくもありませんが、ぼくはぼくで記憶に関してちょっとしたプライドを持っていました。
トランプゲームで言えば『神経衰弱』ですね。めくられたカードは1枚たりとも忘れないという、妙な意地がありました。4枚めくって1セットが取れる、「4枚めくり」という遊びまで考えたりして。
青い街の1作目が神経衰弱をベースにした『UNGERADE/奇数』だったことは、そうしてみると必然だった気もします。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
さて、次回は「弟のこと」です。


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posted by Kazuki at 11:48| 『パールへの道』

『パールへの道』4:弟のこと

実を言えば、弟のことはそれほどよく覚えていません。しかも、いくつかの記憶は残された写真を見て後づけされたものだと思います。
というのも、弟は幼くしてこの世を去ったからです。

その日のことは断片的に覚えています。
外で遊んでいる時、ケンカのような感じになって別々に遊び始めました。その後、弟は近くの川に落ちてしまったのです。道路の脇を流れる川で、柵もガードレールもありませんでした。

記憶はとても断片的で、泣きくずれる母親の姿やお葬式の情景をうっすら覚えている程度。ともかく、全体として何が起こっているのか、よくわかっていませんでした。ぼくは5歳だったと思います。
家族の中で亡くなった者はまだおらず、「死ぬ」ということ自体にリアリティがありませんでした。

状況からして責任を感じてしかるべきだったとも言えます。兄なら特に。
ただ、それはあまりに重い責任ですし、5歳の子供に自覚できるものではありませんでした。しかし、その「わからない」という状態を、何だかとてもいけないことだと感じたのです。死について考え始める契機でした。


おそらく、ただ単に絵が好きなだけなら、そのまま趣味で終わったと思います。
そこに死の観念がからむ時、芸術への志向が生まれます。自分はいつかいなくなる存在だという強烈な自意識が、芸術の大きな特徴だからです。

「メメント・モリ」という言葉があります。「死を忘れることなかれ」という意味のラテン語で、長い間西洋芸術の大きなモチーフでした。
あるいは、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ氏。大江健三郎さんの『日常生活の冒険』の中に、彼の書いた詩が出てきます。それは「死者を死せりと思うなかれ 生者あらん限り 死者は生きん 死者は生きん」というものでした。覚えている者がいる限り、死んだ者は死んだことにならない、という意味です。

『神経衰弱』に関して言えば、記憶の楽しい面を競う遊びでした。一方、死に関する記憶は恐怖や罪悪感をともなっています。それはある種の強迫観念に近いのではないでしょうか。記憶にも明るい面と暗い面があるわけです。
以前、友人の村土くんが「バカというのは、覚えられないか、忘れられないかのどちらかだ」と教えてくれました。なるほどなぁ、と思ったものです。


さて、弟が亡くなってからの3年間ほど。母は毎夕お経をとなえ、弟の冥福を祈りました。ぼくも同席を求められ、となりで一緒にお経をとなえていました。お寺の子供ならばいざしらず、おそらくこれまたかなり珍しい体験だと思います。
自分も親になった今ではよくわかるのですが、母にとっては本当につらいできごとで、「そうしないではいられなかった」と話していました。

いずれにせよ、その体験もまた死を意識させるに充分でした。宗派は浄土真宗ですが、仏様に向き合えば自ずと生き死にを考えます。
弟の死というショッキングなできごと1回だけでなく、日々の中でも生死を意識する習慣があったと言えます。


時代はずっとくだり、自分の子供として男の子二人に恵まれました。
それを願ったわけではありませんが、兄弟が遊ぶ姿を見られたことは、ぼく自身の人生にとってもっとも大きな救いでした。

長男が小学1年生の時、一緒にぼくのアルバムを見たことがあります。実家に里帰りをした時、たまたま寝る部屋の本棚に置いてあったからです。そこには、今は亡き弟の小さな姿も写っていました。
「これ、誰?」と長男が聞いてきます。
「これはお父さんの弟なんだよ。このあと死んでしまうんだけどね。だからお父さんは弟に優しくしてやることができなかった。リンくんはタッくんを大事にしてあげてね。」と答えました。

彼はあいまいにうなずいていましたが、きちんと伝わったと思っています。その後、本当に優しい兄貴になってくれましたから。
勉強は、まぁ、できたりできなかったりですし、いろんなことに不器用ですが、兄であるという一点に関してはとてもいいヤツです。もちろん弟も。二人いるからこその「兄弟」です。


芸術家にとっては何らかの欠落を埋めることがエネルギーになります。そして、そのエネルギーが他の人に伝わる時、救いになるのだと思います。
ただし、芸術家自身は欠落の深みにはまっていくので、あまり救われることがありません。それが、昔ながらの芸術家の姿でした。

一方、20世紀の半ばから、アートはビジネスとして確立し、アーティストはもっと軽やかになりました。ビジネスマンであることを良しとされ、現世での成功が勲章となっています。
もちろん、それはそれで悪くないのですが、ぼくはどちらかと言えば古い文化に属しています。つまり、そのままでは救われないタイプですね。

むしろぼくを救ってくれたのは、創作活動よりも自分の子供たちでした。過去を取り戻すことはできませんが、そこに自分が失った関係を重ねられたからです。
両親や妻に対してと同じくらい、あるいはそれ以上に、子供たちに感謝をしています。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
さて、次回は「メタ視点」です。


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posted by Kazuki at 11:48| 『パールへの道』

『パールへの道』5:メタ視点

自分の生き死にを考える習慣は、人生をメタにながめる気質につながりました。やろうとすることが自分にとってどういう意味があるのか、ついつい考えてしまうのです。
「メタ」というのは「高次の〜」といった意味です。現象の閉じた世界を、一段引いた次元で捉えるアプローチを指しています。ぼくにはあまり際立った才能はありませんが、もっともユニークなのはこのメタ感覚だと思っています。

たとえば、こんなナゾナゾがありました。『刑事くん』と『刑事コロンボ』と『金田一耕助』では誰が一番優秀でしょう? 答えは『刑事くん』。30分番組なので、一番早く犯人を捕まえられるからです。
昔のナゾナゾなので、選択肢がちょっと古いですね。今なら『名探偵コナン』や『金田一少年』を入れるべきでしょうか。いずれにせよ、メタ視点とはフィクションをフィクションとして捉える、そんな感じの見方です。

より深く楽しんでいるとも言えるし、全然楽しんでいないとも言えます。作られたものに接すると、強く作り手を意識してしまうからです。
たとえばアニメなどを見ても、その世界に没頭する一方で、それが「どうやって作られているか」に強い興味がわきました。アニメが一枚一枚手で描かれ、色がぬられていることを知った時には、クラクラしたものです。


そうした意味で、クリスマスは悩みに満ちています。
今では有名な話ですが、サンタクロースの服が赤いのはコカ・コーラの宣伝だから。そうでなくても、一人で世界中の子供にプレゼントを配ってまわるというサンタの設定には無理を感じます。
ちなみに、うちではサンタクロースは最初からいないことになっていました。それが、お金がなかったからなのか、仏教徒だったからなのか、煙突がなかったからなのか。ともかく、ぼくは彼がいるとは一度も思ったことがありませんでした。

これは正直な気持ちですが、サンタクロースがいることを子供に信じ込ませようとする大人の努力が、どうもよくわかりません。
一度だけそれっぽいプレゼントをもらったことがありました。朝起きたらツリーの下にローラースケートが置いてあったのです。ただし、当然のように誰がくれたのかを親にたずねました。親の方も「あぁ〜、それは森澤のおじさんがくれたので、ちゃんとお礼を言っておいてね」と。それって夢がないのかな? お礼を言う方がいいことだと思うんだけど…。サンタ問題はちょっと苦手です。


もう一つ、メタ視点を育てるきっかけになったのは、転校が多かったことだと思います。
父が銀行員だった関係で、けっこう頻繁に転校がありました。ぼく、小学校は4つ行っています。

同じ県なら方言も同じか近しいわけですが、県をまたぐと言葉がかわります。それは揚げ足を取られるかっこうの題材だったので、まわりの子供がしゃべるのを聞いて一所懸命にあわせていました。
行く先々で「方言出ないね」と言われたものですが、いや、出ないようにしてたんです。言葉に対するメタな感覚がつちかわれました。

ただし、一度授業中に見事な失敗をしたことがあります。小学校2年生の夏に、山口から岡山に引っ越したのですが、そこでは習うテンポが少し違っていたのです。
きっかけは算数の時間。問題を読むように言われた子が数式を読み上げました。その時初めて「かっことじる」という言葉を聞いたのです。何、それ? かっこって前だけ読めばいいんじゃなくて、終わった時にとじるの? 頭がグルングルンしましたが、方言をあわせるように「あっ、そうか、そうなのか…」と納得しました。

続く国語の時間。今度はぼくが当てられて、教科書を読むことになりました。で、出てきたのです、かっこが…。読んでいる時にとてもドキドキしたことを覚えています。このかっこは、とじるべきなのか、とじなくてもいいのか…。
ただ、郷に入れば郷にしたがえで、ここではとじるべきなんじゃないかな。そう思って、少し小さな声で、かっこをとじました。

すると、クスクスっと笑い声がして「コイツ、今『かっことじる』っていったぜ」という声が聞こえたのです。えぇ〜っ、このかっこはとじなくてもいいのかよぉ〜。大したことではありませんが、けっこう傷ついた思い出です。


さて、転校も記憶にアドバンテージを与える一つの要因でした。
ほとんどの人は同じ場所で育つと思いますが、そうすると時間は区切られることがありません。一方、場所が変わると、時間の記憶が整理されるのです。

たとえば、『山ねずみロッキーチャック』というマンガがありました。カルピスまんが劇場という枠で放送された番組ですが、これがいつ頃の番組だったか、『アルプスの少女ハイジ』とどっちが先だったのか、という話によくなります。
が、ぼくはそれを岡山で見た記憶があるため、1973年頃だと類推できるのです。また、ハイジはその後広島に転校してから見たので、これまたハッキリそちらが後だと断言できます。

実は、記憶は場所と密接に結びつけられます。西洋には記憶術という歴史がありますが、これは対象を場所にひもづけて覚える技術です。
たとえば「りんご、ギター、帽子、プラモデル」という単語が示された時、それをどうやって覚えるか? り、ギ、ぼ、プと頭文字を覚えていくやり方もあると思います。が、それでは7〜8個が限界ではないでしょうか。それに、単語の続きがすっと出てくるわけではありません。

場所のイメージを活用すると、もっと生き生きとした記憶が形成できます。先の例で言えば、「家のドアを開けると玄関に『りんご』が置いてある。廊下にはギターが立てかけてあり、居間に入るドアにはなぜか帽子がかけてある。ドアを開けるとテーブルにプラモデルが置いてあり…」と。こうしていけば、かなり延々とものが覚えられます。
円周率を何万桁も覚えている人がいますが、ある人はそれと同じやり方をしていました。散歩をしながら、光景に数字を当てはめていく方法です。


そうしてみると、『神経衰弱』はまさしく記憶と場所が密接に結びついた遊びだったことに思いいたります。「転校が多かった」というのは、つまるところ場所への愛着を求める気持ちにつながっていたのかも知れません。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
さて、次回は「岡本くん」です。


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posted by Kazuki at 11:47| 『パールへの道』

『パールへの道』6:岡本くん

岡本くんは、小学校3年生の時に同級生だった友人です。以来40数年、変わらぬ交流が続き、今でも誕生日にはプレゼント交換をしたりしています。
しかし、最初のかかわりはいささかマンガチックに乱暴でした。

同じクラスになったのは、ぼくが岡山から実家のある広島へ転校した日。夏休み明けの9月1日でした。ただ、初日は特に話などしなかったと思います。
ハッキリ覚えているのは、休憩時間にぼくが落書きをしていると、岡本くんがツカツカと近寄ってきてその紙を取り上げたこと。そして、そのまま丸めてクズかごに捨ててしまったのです。

ぼくは何だかあっけにとられて、怒るきっかけを逸してしまいました。かいていたのはタイガーマスクだったと思います。まわりでクラスメイトが「うまいねぇ〜」と言ってくれていました。
まぁ、嫉妬ですよね、あからさまな。それまでクラスで一番絵がうまいのは岡本くんだったので、いきなりライバル登場だったわけです。

実際、逆に彼がかいたものを「うまいなぁ」と思うこともよくありました。そうして、段々仲良くなっていったのです。マンガでよくある、殴り合ってわかりあうアレですね。
お互いの家でよく絵をかいて遊びました。その他、野球盤やボードゲーム、トランプなどなど。二人とも運動神経は悪くありませんでしたが、遊ぶのはもっぱらインドアでした。


そんな中で起きた、ちょっと変わった出来事を覚えています。
岡本くんの家に泊めてもらった時のこと。その日はふとんの上でトランプの『戦争』をしていました。
そのうちに、どうもAが一枚足りない感じがしてきたのです。実際、持ち札を見せあってみるとスペードのAが無くなっていました。

この何かが「ない」ことに気づくというのは、知的な体験です。シャーロック・ホームズの『銀星号事件』では、犬が吠えないことが推理の糸口になりました。
また、アリバイは不在証明と訳されますが、厳密には不在自体が立証されるわけではありません。別の場所に「いた」ことが、犯行現場に「いなかった」裏づけとされるだけ。何かの存在は証明できても、何かの不在は証明できないからです。

さて、無くなったスペードのAはふとんの下から出てきましたが、その際考えていなかったことが起きました。一緒にハートの7が出てきたのです。
Aは重要なので不在に気づかれましたが、7の不在は意識の外でした。何とも言えない不平等さが感じられて、ハートの7に悪い気がしたものです。そう感じたのは岡本くんも同じでした。そのあたりの感覚を共有できたところが、彼との友情が長く続いた要因かも知れません。


カードゲーム制作の原体験も、岡本くんと共にありました。
当時はまだ専用カードというイメージはなく、トランプを使った新しいゲームへのチャレンジでした。中学生の時だったと思います。
その他、野球盤やボードゲームも自分たちで作ってみました。特に野球盤は、長い棒の先に磁石をつけて、カーブやシュートを投げられるように工夫した「ちょっとした」ものでした。

いずれにせよ、それらのゲームは二人でなければできません。絵は一人でもかけますが、対戦ゲームには必ず相手が必用です。岡本くんと遊んでいなければ、おそらく「ゲームを作ってみよう」という発想にはいたらなかったと思います。

では、なぜ自分たちでゲームを作ってみたかったのでしょう?
これには、やはり先のメタ感覚が関係していると思います。
ルールというのは禁止事項です。「これをやってはいけない」という積み重ねがゲームの枠組を決定します。だから、窮屈なんですよね、ルールの多いものは。遊びだけでなく、組織や活動にも当てはまると思います。

ところで、野球で打者がボールを打った時、なぜ3塁に走ってはいけないのでしょう?
もちろん普通のルールであれば、それは禁止されていますし、意味がありません。が、それをルールにしてしまえば、新しい遊びが生まれます。一旦3塁側にまわったら、その回は時計まわりをしなければならない、とか。野手がボールを取っても、1塁と3塁のどちらに投げて良いか迷うので、心理的に複雑なゲームになるはずです。

ラグビーは、サッカーをやっている時に、やむにやまれずボールを持って走り出した人がいたから生まれたと言います。
新しい何かを生み出すには、ルールという枠組の外に飛び出さなければなりません。


ぼくが作るゲームにルールが少ないのは、その方がたくさんの人に遊んでもらえるからです。が、気持ちの問題で言えば、禁止事項をたくさん言いたくないんですね。「あれはダメ、これもダメ」という具合に。
ルールの少なさで言えば、囲碁が理想だったりもします。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
さて、次回は「いとことトランプ」です。


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posted by Kazuki at 11:46| 『パールへの道』

『パールへの道』7:いとことトランプ

杉岡という苗字は母方の姓で、父方は渡辺と言いました。ぼくが杉岡姓なのは、父が婿養子に入ったからです。
今ではそれほど珍しいことではありませんし、夫婦別姓という考え方もありますが、かつては抵抗の大きな形でした。父もずいぶん気にしていたようです。

ちなみに、父はぼくに「大造」という名前をつけたかったと聞いたことがあります。場合によっては、杉岡一樹ではなく、渡辺大造だったかも知れないわけです。
もちろん渡辺大造も悪くありませんが、たぶん少し性格が変わっていたでしょう。


さて、2つの家族の中でぼくの立ち位置は見事に逆転していました。母は4人姉妹の長女であり、ぼくはその長男。よって、いとこの中では最年長でした。一方、父は7人兄弟の末っ子だったので、父方では一番下になりました。

タイトルのいとこは父方に関してです。
父の田舎は広島の山奥にあり、見渡す限り山と畑と田んぼでした。家もまばらで、当然娯楽施設などありません。川で釣りをしたり、水晶を探しにいったりして遊びました。
そして、何より楽しみだったのがトランプでした。

『ババ抜き』『ダウト』『大富豪』『ナポレオン』…。
どうして、いとことのトランプがそれほど楽しかったのでしょう?
いとこという距離感が特別だったからかも知れません。兄弟ほどには近くなく、一方、親が兄弟なので家の文化は似ていたと思います。

ただし、一緒に過ごした時間は実はほんのちょっとでした。帰省は2年か3年に一度、しかも夏休みだけでしたから、トータルしても数日程度の計算になります。つまり、けっこういきなり一緒に遊んでいたわけで、楽しさの要因は気があうこととは別のところにあった気がするのです。

では、何か? それは、年齢や性別がいりまじっていた点ではないでしょうか。ぼくが中学生の時、一番上のお兄さんはすでに社会人でしたが、とてもフランクに遊んでくれました。また、女の子と一緒にトランプをするというのも、中学生にとってはけっこう新鮮でした。
画一的ではない集団のなごやかさは独特だと思うのです。

ぼくが、カードゲームに対してある種絶対的な「楽しさ」の自信を持っているのは、その時の記憶に起因しています。年齢や性別、さらには国籍などが違っても、気持ちよく交流できるイメージです。
カードゲームが作り出す場にはおだやかな親密さがあります。趣味や性格が似ているから仲良くなれるのではなく、結びつきが無条件的なのです。知識や能力もことさら問われません。アイテムが、純粋な楽しさとして機能してくれるのです。


ところで、子供たちがトランプで遊んでいる間、父とその兄たちはもっぱら囲碁に興じていました。お酒を飲んでは、かわりばんこに囲碁を打つ。素晴らしい兄弟ではありませんか。
おさない頃にはそれほどではなかったそうですが、年をとってからは本当に仲の良い兄弟でした。取りあう財産がなかったからだと笑っていたりして。その姿を見るのもまた、里帰りの大きな楽しみでした。

さて、囲碁というゲームにも少し触れておきましょう。ぼくは良い打ち手ではありませんが、そのユニークさにしびれているからです。
ほぼすべてのゲームは要素が異なるポテンシャルを持ち、全体は限界として作用します。
それに対して、囲碁はまったく逆のベクトルを持っています。囲碁の要素、つまり碁石が持っているポテンシャルは全て同じです。そして、ゲームは全体をどう分けるかという方向性で進みます。
要素から始まって枠組にぶち当たるのではなく、枠組から始まって納まる状態に行きつくのです。

ただ、囲碁や将棋は力の差がそのまま勝敗に反映されます。だからこそプロがあり、おもしろいとも言えるのですが、偶然性がないと弱い側に勝ち目はありません。ハンデをつけてもらっても、ゲームの流れを握るのはやはり強者です。
Aと7の違いですね。ぼくはどうしても7の側が気になってしまうのです。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
さて、次回は「目の中の劇場」です。 


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posted by Kazuki at 11:45| 『パールへの道』

『パールへの道』8:目の中の劇場

『目の中の劇場』というのは、高山宏さんの本のタイトルです。
大学1年の時に論文資料として買い求めたのですが、人生でもっとも衝撃をうけた読書体験だったと言っても過言ではありません。当時、高山さんは都立大学の英文学科助教授。英文学といいつつ、文化史全般に幅広い含蓄のある方でした。

その情報量たるや本当に膨大なのですが、強引にまとめて言えば「視覚の制度」を考察した本です。シェークスピアの円形劇場に始まり、後期ヴィクトリア朝まで。イギリスを舞台にくり広げられた視覚文化のあれこれが、これでもかとばかりに取り上げられていました。
それまで絵をかくことを自由な活動だと捉えていたぼくは、その行為がしっかりと「作られた」もので、全然自由じゃないって指摘にがく然としたものです。メタメタでしたね。

通常、ぼくらは遠近法にそって描かれたものをリアルに感じます。が、遠近「法」というように、それはまぎれもなく一個の制度なわけです。しかも大変によくできた。つまり、ルールをルールと思わせないほど、強固な制度なんですね。
メタ感覚にある種の自信を持っていたぼくは、自分の甘さにションボリしてしまいました。

大学に入る時には、あえてテレビを買いませんでした。それがあったら勉強にならないと思ったからです。
その判断は正しかったはずですが、高山さんの著作によってテレビ視聴をもう一段深く考えさせられました。それが持っている仕組みについてです。


実写であれ、アニメであれ、テレビの映像はカメラによって取り込まれます。それはつまり、すべての光を一点に集めることです。
この「光を一点に集める」という仕組みは、それ以外の方法が思い浮かばないほど当たり前になっています。しかし、では、いつ頃考えられたものでしょう?

答えはルネサンスです。レオナルド・ダ・ヴィンチに代表される時代ですね。
その頃、リニア・パースペクティブ(線遠近法)という技法として、視点を一点に設定する仕組みが確立されました。建築の完成予想図を「パース」と呼びますが、まさにそのことです。

実際、線遠近法は未来を描くための技法として発達しました。
まずは、視点の高さに消失点を設定します。はるか彼方にあって、ものが「消えてなくなる点」です。そこを基点に、近づけば近づくほどものは大きくなってくるわけで、世界を逆算で捉える方法とも言えます。
デザインとデッサンは同じ語源で、ディゼーニョ(計画する)というラテン語です。未来のある地点を到達点として、逆算的に現在を設計する技術を指しています。

しかし、本来ものは遠くにあってもなくなるわけではありません。あくまで仮の到達点として「0」を設定するわけです。まずは、そこに技術の大きな飛躍がありました。0の発見ですね。

0は、空の観念をつきつめた結果として、インドで6世紀頃に発明されたと言われています。それまで0という考え方は世界にありませんでした。21世紀が2001年から始まるのは、BCとADの間に0が設定されていなかったからです。
インドからヨーロッパにそれが伝わり、15世紀頃ルネサンスで視覚の技法に応用されました。ちなみに、簿記の発展も同じ頃で、やはり計算に0を取り入れた結果です。


ところで、線遠近法以前の絵はどうやって描かれていたのでしょう?
見てかくこともありましたが、基本的には記憶が大きなテクニックでした。線遠近法は絵というよりも製図に近い技術で、絵の根本は記憶です。
あれ? どこかで聞いたような?

そう。ぼく(というか、ほとんど全ての人)が絵の技術を習得していく過程というのは、そのまま美術史をなぞっているわけです。
小さい頃の絵は、記憶によって描かれます。ゾウさんだったり、キリンさんだったり。そこから徐々に対象を見て描くようになりまずが、その段階でも基本はまだまだ記憶です。美大受験などの専門的な学びで、まさに線遠近法のテクニックを身体にしみこませるのです。
ぼくがションボリしたのは、枠組の外に出ようとしていたはずが、見事なまでにレールに乗っていたからです。

さらに言えば、線遠近法は周到な権力装置としても使われます。
映画館を思い浮かべていただければイメージしてもらいやすいはずですが、画面をきれいに見られる場所は劇場のセンター。つまり、カメラの視点に近ければ近いほど、その再現を楽しめます。
その構造は、王が開催する芝居で顕著に応用されました。舞台が一番よく見られる特等席に王が座り、寵愛の順に席が決まります。芝居が楽しく見られるほど、王にかわいがられているわけです。何だかなぁ〜。

Aを頂点として7がないがしろにされる世界。やっぱり、ちょっと居心地の悪い感じがするのです。


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さて、次回は「家族の肖像」です。


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posted by Kazuki at 11:44| 『パールへの道』

『パールへの道』9:家族の肖像

『家族の肖像』と呼ばれる絵画ジャンルがあります。
英語で『Conversation Pieces』。直訳すれば「会話の断片」といった感じでしょうか。イギリスで17〜18世紀に流行し、やがて家族写真に発展していく文化の原型です。

その時代、イギリスでは囲い込み運動と産業革命によって新しい富裕層が生まれていました。『家族の肖像』は、そうした家族を描いたものです。美術史的にはメイン・ストリームから完全にはずれていて、実際あまり高品質な作品はありません。あくまで家族の記録が目的の、趣味的ジャンルでした。

ただし、文化史的にはけっこうおもしろい作品群でもあります。
ぼくが着目したのは視線のバラつきでした。
画面からこちらを見返す視線は、ノンフィクションで使われます。ニュースなどがそうですね。一方、フィクションの視線はカメラの存在を透明化し、こちらを見返すことはありません。本来それらは混在しないのですが、『家族の肖像』ではけっこうな頻度で混ざりあっているのです。

たとえば、ニュースでキャスターが画面のこちらを見ないでしゃべったら、何だか居心地が良くありません。「おいおい、誰に向かってしゃべってるんだよ」と。一方、ドラマの中でカメラを見返す人が出てしまうと、「あれ? 作り物だってわかってるの?」となります。つまり、枠組に対するアプローチが両者ではまったく異なっているわけです。
おそらくジャンルの黎明期だったので、混在がおかしいとは認識されなかったのでしょう。しかし、それらが併置されることで、『家族の肖像』のいくつかは仲が悪そうに見えます。


しかし、こんな見方もできると思います。家族とは、本来バラバラの性質を持っている集団だ、と。もともと他人だった夫婦を核にして、意見や嗜好が違っても、とにかく一緒に住んでいるわけです。ある集団を家族として意味づけるのは、実は「一つ屋根に下に住んでいる」という物理的なしばりなのかも知れません。
その意味で、絵画のフレームは家屋の比喩とみなすことができます。

奇妙な偶然が重なっていると思います。
「家族」は、ぼくが小さい頃から気にかけていたテーマです。一方、枠組に対するメタなアプローチもぼくの特徴でした。『家族の肖像』はその両方を満たしていました。

そうしたことを1年かけて論文にまとめ、ぼくは大学をあとにします。
もともといたのは実技コースでしたが、その考察を論文にするため茂木博先生に師事しました。茂木先生は温厚で博識、軸のぶれない美術史の先生でした。
その後、ニューヨークで川島猛さんや河原温さんのアシスタントをしたり、帰国して広告代理店や出版社に勤めて年齢を重ねました。
30歳の時に結婚し、男の子二人に恵まれます。もちろん家族写真もたくさん撮りました。人生でふたまわり目の『家族の肖像』でした。


そして、30歳からの10年間はほとんど作品をつくらず、子供たちとの時間を一義に過ごしました。
時折コンセプトを練ったりスケッチを取ることはありましたが、それらは発表のためではありませんでした。
気持ちに変化が起きたのは40歳になった時です。人生の半分を過ぎた感慨と子供たちが自分で遊ぶようになったことから、ちょっとした気持ちの変化が起きました。あらためて展覧会を考えるようになったのです。

そこから2年ほどかけて作品を準備し、2007年7月7日からの7日間、東麻布の画廊で個展を開きました。展覧会のタイトルは『家族の肖像/兄弟という相似形』。それまでの人生の集大成だったと言えるでしょう。弟の死から37年、論文を書きあげてから17年ほどが経過していました。
ぼくは「やりたいことをやるには時間がかかる」と考えていたので、ちょうど良いスパンだったと思います。オープニング・パーティーにはたくさんの人が来てくれて、作品もひとまず完売。充実した一週間でした。


なお、今回の記事に関連する資料はこちらのサイトに掲載しています。
http://k-sugioka.sblo.jp


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さて、次回は「動くことは活きること」です。


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posted by Kazuki at 11:43| 『パールへの道』

『パールへの道』10:動くことは活きること

個展が終わっても、しばらくは制作を続けていました。
追加で注文を受けた同じタイプの作品と、さらに発展させたものを1点。ただ、それらの制作には軽い違和感がありました。開いた展覧会が明確に一個のピリオドだったからかも知れません。
また、オープニング・パーティーがあまりにも楽しくて、「人が集まるのってやっぱりいいなぁ」としみじみ思っていました。展示なしで、それだけでいいんじゃないかというくらい。

一方、一冊の本が新しいインパクトを与えてくれました。松宮秀治さんの『ミュージアムの思想』です。これまたぼくの人生の中では五指に入ります。ヨーロッパの博物館文化を切れ味するどく考察した本でした。
18世紀、イギリスの貴族はエジプトの墓から掘り出した大量の宝飾品を集めていました。産業革命などで得た富をそこにつぎこんでいたわけです。中でもハンス・スローン卿のコレクションは膨大なものでした。そのスローン卿が亡くなり、主人を失った彼のコレクションが大英博物館のもとになります。世界最初の博物館をつくり上げたのは、遺品の移動と集中でした。博物館とは死んだモノを保管しておく場所と言えます。


ぼくの作品が博物館に入ったわけではありませんが、それがアートである限り、モノとしての指向性は同じです。
つまり、ぼくとしては、もう少し生きたものに近寄りたいと感じ始めていたわけです。もっと猥雑といいますか。パーティーに感じた楽しさは、その象徴だったのでしょう。
転換のヒントは印刷技術の研究から得られました。

印刷の版には大きく2つの種類があります。ページ全体を1枚の版木に彫りこむ整版と、1文字づつを内容にあわせて組み合わせる活版です。
歴史的には整版が先に発達しました。木を彫ってつくるには、整版の方が手っ取り早いからです。特に東洋には膨大な数の漢字がありましたから、それをあらかじめ準備しておく活版は現実的ではありませんでした。

活版の発達は、これまたルネサンス。ヨハネス・グーテンベルクによって印刷術として体系化されました。と言っても、グーテンベルクが印刷技法の全てを考案したわけではなく、画期的だったのは印刷機です。ヨーロッパの田舎にはワインをつくるために、ぶどうをしぼる機械がありました。これを改造して版に圧を加える印刷機をつくったのです。イノベーションっぽいですよね。

その後、鋳造技術の発達もあって、印刷の主流は金属活字へと移っていきます。
ちなみに、漢字の金属活字をつくったのもヨーロッパの人たちでした。キリスト教を中国に普及させるため、中国語版の聖書をせっせと印刷したのです。
明治維新後、日本人が金属活字の技術を学んだのも、上海にあったキリスト教系印刷所の技師から。活版印刷技術はキリスト教と深い関係を持ちながら世界中に広がっていきました。


さて、ぼくが興味を持ったのは「活字」という呼び方でした。
その意味は、一旦印刷のために組まれた文字が、再度バラバラにされるところから来ています。つまり、固まった状態から解放され、動く状態を「活きている」とみなしたのです。英語で言えばMovable Type。死んだものは動かず、活きているからこそ動けるわけですね。

そこから、本とカードの対比が思い浮かびました。
本はその形態自体で人を魅了します。集めただけの紙の束はそれほどでもないのに、それが「本」になったとたんに愛着がわきます。その魔法がずっと不思議でした。
製本の勉強が、自分なりの答えに導いてくれました。糊で背を固める加工は紙の束を動けなくすることですが、それは昆虫採集に似ています。文字という蝶を奇麗にならべる喜びであり、博物館の魅力にも通じます。死物フェティシズムの香りがするわけです。
知識というのは本来残酷なもので、分るも解るも同じ字義。牛の角をさばくことを意味しました。

もちろん、本や博物館が悪いわけではありません。文化は分けることと組み合わせることの循環によって活性化されるからです。どちらかの状態で止まっていることこそ、メタな意味で本当の文化的停止と言えるでしょう。
ただ、ぼくは動く方により比重をかけたいと思ったのです。1枚づつでひらひらと舞い、組み合わせによってその都度新しい意味を生み出すカードに。

別の言い方をすれば、家族を絵の中に押し込めるのではなく、家族が楽しめるものを作りたくなったわけです。つまり、何となくカードに興味を持ったというよりも、ある種の理詰めでそこにたどりついた感じでした。
もちろん、おさない頃のいろんな記憶が、そうした発想を大きく後押ししてくれました。パズルのピースが納まるように、カードゲームというアイテムがぼくの心にはまっていったのです。


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さて、次回は「ドイツと川崎」です。


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posted by Kazuki at 11:42| 『パールへの道』

『パールへの道』11:ドイツと川崎

あらためてカードゲームについて調べてみると、そのメッカはドイツでした。カードゲームに限らず、テーブルゲーム全般に関してですね。
かれこれ20年ほど前ですが、ぼくはドイツに一度だけ旅行をしたことがあります。OPELのデザイン・コンテストで広告賞をもらい、その副賞でドイツとオーストリアに連れていってもらったのです。印象は先入観通りといいますか、清潔で堅実。大変気持ちの良い旅でした。

ぼくを知る人がすれば、「スギオカらしい」「カズキっぽい」という感じではないでしょうか。自分でもそう思います。特に田園風景が素晴らしく、バスから眺めてうっとりしたものです。
なので、カードゲームを通じてドイツとのかかわりができることは、ちょっとした喜びでした。
これまた先入観ですが、ドイツ人のきっちりしているところがゲームのルールを考えるのに向いているのかも知れません。

いろいろと調べた後、最初に買ったのは『ごきぶりポーカー』というカードゲームでした。
ゴキブリだけでなく、ハエやカエルといった嫌われている動物をお互いにおしつけあうゲームです。トランプの『ダウト』に似ていますが、もっと辛辣で、負ける人を一人だけ決めます。シンプルなルールで、かなり盛り上がるゲームです。
個人的に響いたのは、8種×8枚づつというカード構成でした。その枚数の美しさ! ちなみに、青い街のロゴはデジタル数字の「88」をあらわしています。


青い街と言えば、名前の由来は『ブルーシティー』というマンガです。小学4年生の時に読んだそのマンガがもう好きで好きで大好きで、カードゲームをつくり始める時にメーカー名にしてしまいました。
そのままブルーシティーにしなかったのは、「何故、英語?」と自問したからです。一方、ゲームのメッカがドイツならば、ブラウシュタットでも良いわけです。もちろん「何故、ドイツ語?」という疑問は生まれます。
いろいろ悩んだ結果、まずは日本語にしておいて、訳す必用があれば「ブルーシティー」なり「ブラウシュタット」にすればいいと考えました。

ちなみに、『ブルーシティー』が掲載されていたのは週間少年ジャンプでした。先にジャンプを買い始めたのは岡本くんで、やがてぼくも買うようになりました。ロボットや宇宙船がSFのテーマだった時代において、海底都市で人が生きていこうとする『ブルーシティー』は圧倒的な先進性でした。
それから30年が経ち、岡本くんと息子の暁くん、加えてぼくと息子2人の5人で『ごきぶりポーカー』をプレイしたのは感慨深い思い出です。


その後も『ハゲタカのえじき』『クーハンデル』『サメ警報』など、いろいろなカードゲームを買い求めました。ドイツのゲームには本当にお世話になっています。青い街のゲームがドイツ語タイトルなのは、ある種のオマージュです。そこではあまりひねらず、素直にドイツ語にしました。

さて、子供たちとも遊びましたが、大人と一緒に研究する場も欲しいと思いました。先々は自作のテストプレイをお願いしたかったこともあります。
「カードゲームで遊ぶ会」と銘打ち、友人・知人に声をかけました。場所は自分の都合を優先させる形で川崎。公共施設の会議室を使うことにしたからです。教育文化会館という建物の会議室を借りて、みんなには交通費だけを負担してもらいました。
毎回10〜15人が集まってくれて、楽しく「研究」したものです。

ところで、研究したからといって自分でゲームがつくれる保証はなかったわけですが、そこは全然心配していませんでした。おさない時からその志向があったせいか、根拠のない自信がありました。
そうして第1作目の『UNGERADE/奇数』が誕生します。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
さて、次回は「パール誕生」です。


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posted by Kazuki at 11:41| 『パールへの道』