2014年09月17日

『パールへの道』13:3.11の記憶

3.11には会社で仕事をしていました。
非常に大きな揺れを感じましたが、かなり冷静に行動したはずです。揺れがおさまった後、念のため会社の裏手にある小学校の校庭に避難しました。そこには近隣の会社からたくさんの人が逃げていて、たぶん200人くらいはいたと思います。
何が起きているのかよくわかりませんでしたが、引っぱり出されたテレビには千葉のコンビナート火災が映し出されていました。各現場のチーフ陣と話し合い、できるだけ早めに帰宅することを決定。ただし、その時点では東北の津波被害などはわかっていませんでした。

ちなみに、ぼくはその界隈の防災協議会に参加をしていました。
餅つきがきっかけでできたご縁でしたが、会長の大塚さんという方に誘われてちょくちょく集まりに顔を出していたのです。平日の日中はおおむねそこにいるわけですから、働いている場所の防災組織への参加は理にかなっています。
実際、3.11でも大塚さんと顔をあわせてお互いほっとしたものです。「知ってる顔があると安心できるから、日頃のつきあいが何よりの防災だね」とは、大塚さんの言。大好きな人生の先輩です。


さて、3.11の直後は「何かできることはないだろうか」と、精力的に動きました。気持ちがからまわりすることもありましたが、何しろ一所懸命でした。人生で初めて災害関係の寄付をし、援助の意志のある人と連絡を取りあい、現地のボランティアにも参加しました。
たぶん、同じ揺れを地続きで感じたことが原動力になったのだと思います。

一方、首都圏にはしばらくの間特別な空気が流れていました。
原発事故は余談を許さず、東京はそれまでにない顔をしていました。不必要な電気は消され、テレビも多くの番組を自粛。全体として、とてもまじめだったように思います。

誤解を恐れずに言えば、ぼくはその状態が嫌いではありませんでした。
行き過ぎた消費に心を痛めていましたし、原発推進にもずっと懐疑的だったからです。
いずれにせよ、原発関連のいろいろな嘘があきらかになり、「きちんと考えていこう」という空気が共有されていたと思います。また、「東北の復興をみんなで支えよう」という、共生の息吹きも感じられました。
亡くなられた方への哀悼と福一事故に無念を覚えつつ、それでもなお希望が背中を押してくれる感じでした。


しかし、半年経ったくらいからでしょうか。東北の痛みは徐々に巷から薄れていき、人工の光と喧噪が東京に戻ってきました。あれほどみんなが懐疑的になったテレビも、結局根本姿勢を変えはしませんでした。
もちろん、そうでなければ資本がまわらないことはわかります。ただ、忘れてはならない問題がいとも簡単に押し流されていく状態に、強い違和感を覚えたのです。
原発を再稼働させたり、輸出したりすることも平気で口にされ始めました。

ここでは、政治的な立場や見解に深入りするつもりはありません。ふれたいのは、この連載がずっとたどってきた「記憶」の問題についてです。
今現在も避難所生活を送っている方はいらっしゃいますし、福一だってほとんど収束していません。なのに、東京は3.11以前と変わらない状態に戻っています。その記憶のギャップ…。
自分と状況がかい離していき、何とも言えない孤独を感じるようになりました。

世の中との感覚的なズレは3.11以前にもあったと思います。ただし、それは長年の積み重ねでもあり、一応の折り合いはついていました。が、一旦「あっ、これで日本は変わるな。みんなで力をあわせていこう!」と思ったところからのギャップは、扱いに困るものでした。
完全に一人ぼっちだったわけではありません。時折会う親しい友人とは認識をともにしていました。しかし、だからこそ日常生活の違和感がふくらんでいったようにも思います。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回は、いよいよ現在に重なる「研修とうつと起業」です。


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posted by Kazuki at 11:39| 『パールへの道』