2014年09月17日

『パールへの道』7:いとことトランプ

杉岡という苗字は母方の姓で、父方は渡辺と言いました。ぼくが杉岡姓なのは、父が婿養子に入ったからです。
今ではそれほど珍しいことではありませんし、夫婦別姓という考え方もありますが、かつては抵抗の大きな形でした。父もずいぶん気にしていたようです。

ちなみに、父はぼくに「大造」という名前をつけたかったと聞いたことがあります。場合によっては、杉岡一樹ではなく、渡辺大造だったかも知れないわけです。
もちろん渡辺大造も悪くありませんが、たぶん少し性格が変わっていたでしょう。


さて、2つの家族の中でぼくの立ち位置は見事に逆転していました。母は4人姉妹の長女であり、ぼくはその長男。よって、いとこの中では最年長でした。一方、父は7人兄弟の末っ子だったので、父方では一番下になりました。

タイトルのいとこは父方に関してです。
父の田舎は広島の山奥にあり、見渡す限り山と畑と田んぼでした。家もまばらで、当然娯楽施設などありません。川で釣りをしたり、水晶を探しにいったりして遊びました。
そして、何より楽しみだったのがトランプでした。

『ババ抜き』『ダウト』『大富豪』『ナポレオン』…。
どうして、いとことのトランプがそれほど楽しかったのでしょう?
いとこという距離感が特別だったからかも知れません。兄弟ほどには近くなく、一方、親が兄弟なので家の文化は似ていたと思います。

ただし、一緒に過ごした時間は実はほんのちょっとでした。帰省は2年か3年に一度、しかも夏休みだけでしたから、トータルしても数日程度の計算になります。つまり、けっこういきなり一緒に遊んでいたわけで、楽しさの要因は気があうこととは別のところにあった気がするのです。

では、何か? それは、年齢や性別がいりまじっていた点ではないでしょうか。ぼくが中学生の時、一番上のお兄さんはすでに社会人でしたが、とてもフランクに遊んでくれました。また、女の子と一緒にトランプをするというのも、中学生にとってはけっこう新鮮でした。
画一的ではない集団のなごやかさは独特だと思うのです。

ぼくが、カードゲームに対してある種絶対的な「楽しさ」の自信を持っているのは、その時の記憶に起因しています。年齢や性別、さらには国籍などが違っても、気持ちよく交流できるイメージです。
カードゲームが作り出す場にはおだやかな親密さがあります。趣味や性格が似ているから仲良くなれるのではなく、結びつきが無条件的なのです。知識や能力もことさら問われません。アイテムが、純粋な楽しさとして機能してくれるのです。


ところで、子供たちがトランプで遊んでいる間、父とその兄たちはもっぱら囲碁に興じていました。お酒を飲んでは、かわりばんこに囲碁を打つ。素晴らしい兄弟ではありませんか。
おさない頃にはそれほどではなかったそうですが、年をとってからは本当に仲の良い兄弟でした。取りあう財産がなかったからだと笑っていたりして。その姿を見るのもまた、里帰りの大きな楽しみでした。

さて、囲碁というゲームにも少し触れておきましょう。ぼくは良い打ち手ではありませんが、そのユニークさにしびれているからです。
ほぼすべてのゲームは要素が異なるポテンシャルを持ち、全体は限界として作用します。
それに対して、囲碁はまったく逆のベクトルを持っています。囲碁の要素、つまり碁石が持っているポテンシャルは全て同じです。そして、ゲームは全体をどう分けるかという方向性で進みます。
要素から始まって枠組にぶち当たるのではなく、枠組から始まって納まる状態に行きつくのです。

ただ、囲碁や将棋は力の差がそのまま勝敗に反映されます。だからこそプロがあり、おもしろいとも言えるのですが、偶然性がないと弱い側に勝ち目はありません。ハンデをつけてもらっても、ゲームの流れを握るのはやはり強者です。
Aと7の違いですね。ぼくはどうしても7の側が気になってしまうのです。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
さて、次回は「目の中の劇場」です。 


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posted by Kazuki at 11:45| 『パールへの道』